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復活祭の日付と教会間の争い (1)

世の中には面白いことがいくつかあると言われていますが、その中の一つが他人の争いを見物することではないでしょうか。ある対立が生じて摩擦が起こり、それを解決していく様子は実に面白いものです。だからこそ、面白いことで有名な小説や映画では、ストーリー上の危機管理が非常にうまく調整されています。


『復活祭の本当の意味』シリーズで、過越祭を廃止したかったローマの教会によって復活祭の日付の基準が「春分の日」になり、それを今日まで続いてきたことを紹介しました。今回のシリーズでは、東方教会と西方教会の対立とその結末に向かっていく過程について詳しく扱っていきたいと思います。


第1・2次論争


復活祭の日付を決める過程で起こった論争は、主に第1次、2次、3次論争に分けられます。第1次論争があったのは約155年頃でした。スミルナ教会(東方教会)の司教ポリカーポス(Polycarpos、ポリカプス)とローマ教会(西方教会)の司教アニケトゥス(Anicetus)が対立した意見を持ち、論争が起こったのです。この出来事は『The Ecclesiastical History of Eusebius Pamphilus』やその他の資料で確認できます。


ポリカーボスがローマを訪れた際、ローマ教会の司教はアニケトゥスでした。彼らは復活祭の日付をはじめ、教会のさまざまな問題について議論しましたが、お互いを説得することはできませんでした。最終的に、東西教会はそれぞれ異なる日に復活祭を祝うことに合意しました。




第2次論争はそれから約40年後の197年頃に起こります。ローマ教会の司教ビクトル(Victor Ⅰ、ビクトル1世)は、すべての教会が日曜日に聖餐式を行うことを強制しました。これを「ドミニクの規則」と呼びます。西方教会はビクトルの主張をすぐに受け入れましたが、東方教会はイエスの教えとは異なる内容を強制するビクトルの命令に強く反発しました。


『ユセビウスの教会史』には、ビクトルが春分の日を基準にした復活祭を守るよう教会に強制した際、当時エフェソス教会(東方教会)の司教ポリクラテス(Polycrates)がビクトルの命令に反論した書簡が載せられています。下に紹介いたします。


私たちは真に正しく神様の掟を守っています。… 十二使徒の一人であるフィリポと… ヨハネも… 彼らは皆、少しも誤ることなく信仰の規則に従い、福音に従ってナッサンの14日を過越祭として守りました。そして私、ポリクラテスは… 私を脅すために取られるすべての行動に全く驚きません。なぜなら、私よりはるかに偉大な人々も「人に従うのではなく、神に従うべきだ」と言ったからです。ー 『The Ecclesiastical History of Eusebius Pamphilus』


イエスの教えとは大きく異なる教義を強制するビクトルの措置に対して、ポリクラテスがいかに断固とした意志で立ち向かったかがうかがえます。ビクトルはポリクラテスの書簡を読んで、すぐにアジアのすべての教会とその周辺の教会を異端教会として追放しようとしましたが、一部の司教たちの仲介によって追放を取り消しました。


第3次論争


第3次論争は325年のニカイア公会議で行われました。ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世は、東西教会の長年の対立を終わらせ、キリスト教の教義を統一する目的で、325年5月20日から6月19日までニカイア地方で会議を召集しました。実際の皇帝の真の目的は、教会を統一して帝国の安定を図ることでした。


ニカイア公会議の議題として、まず第一に復活祭の日付に関する問題がありました。東方教会は過越祭を守り、西方教会は日曜日を重視していたためです。第二は、アリウス(Arius)の教義によって教会が分裂する恐れがあるという問題でした。約2ヶ月にわたる会議の結果、西方教会の主張通り、イエスの死を記念する聖餐式をイエスの復活を祝う日曜日に行うことが決定されました。これにより、公式に過越祭が廃止されました。


ニカイア公会議後、春分の日を基準に計算された復活祭の日付が教会に根付き、広まりました。そして今日、世界中の教会は、イエスの復活を記念することをローマ皇帝コンスタンティヌス1世が命じた通りにしている訳です。



復活祭の日付と教会間の争い (1)
復活祭の日付と教会間の争い (2)

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