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マルティン・ルターの「95ヶ条の論題」 (2)

この記事では、マルティン・ルターの「95ヶ条の論題」 の内容の序文から命題の20番までをご紹介いたします。原題はラテン語で書かれており、「Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum(贖宥状の有効性についての議論)」です。 この文書は贖宥状の問題点を指摘し、聖書の教えを超えて商業化された教会の腐敗を批判しています。

※ 下記の内容は、筆者が直接ラテン語の原文と英語の翻訳版を比較して作成しましたので、無断で盗用しないでください。


序文

Amore et studio elucidandae veritatis haec subscripta disputabuntur
Wittenbergae, Praesidente R. P. Martino Luther, Artium et S. Theologiae Magistro eiusdemque ibidem lectore Ordinario. Quare petit, ut qui non possunt verbis praesentes nobiscum disceptare, agant id literis absentes. In nomine domini nostri Iesu Christi. Amen.

真理への愛と、それを明らかにしようとする願いから、ヴィッテンベルクにおいて、文学修士、神学修士、同地の神学正教授である司祭マルティン・ルター司会のもとに、以下のしるされたことについて討論することにする。したがって、出席して私たちと口頭で論議することのできない者は、欠席のまま書面でこれをしていただくようにお願いする。私たちの主イエス・キリストの御名において、アーメン。

命題

1. Dominus et Magister noster Iesus Christus, dicendo poenitentiam agite etc. omnem vitam fidelium poenitentiam esse voluit.

私たちの主であり教師であるイエス·キリストが「悔い改めなさい(Poenitentiam agite)」とおっしゃった時、その方は信じる者たちの人生自体が悔い改めそのものになることを望みました。


2. Quod verbum de poenitentia sacramentali (.i. confessionis et satisfactionis, quae sacerdotum ministerio celebratur) non potest intelligi.

それを聖職者たちが執行する秘跡としての悔悛(告解と償罪)であると解することはできません。


3. Non tamen solam intendit interiorem, immo interior nulla est, nisi foris operetur varias carnis mortificationes.

しかも単に内的な悔い改めをさしているのではありません。外的な苦行のない内的な悔い改めは無に等しいです。


4. Manet itaque poena, donec manet odium sui (.i. poenitentia vera intus), scilicet usque ad introitum regni caelorum.

したがって、[罪の]処罰(ポエナ)は自分に対する憎悪が続く限り持続します。 これが本当の内面の悔い改めであり、私たちが天国に入るまで続くからです。


5. Papa non vult nec potest ullas poenas remittere: praeter eas, quas arbitrio vel suo vel canonum imposuit.

法王は自分が直接権威を持って賦課したり、教会法によって賦課された刑罰以外にはいかなる罰をも赦免できなく、免除することもできません。


6. Papa non potest remittere ullam culpam, nisi declarando et approbando remissam a deo. Aut certe remittendo casus reservatos sibi, quibus contemptis culpa prorsus remaneret.

法王は、神から罪責(クルパ)が赦免されたと宣言して赦免する以外、どのような罪責も赦免することはできません。 もちろん、法王は自分の判断により、特別な場合に免除を許可することができます。 もしそのような場合に彼が免除を許す権利が軽視されたら、その罪責はまったく許されないでしょう。

7. Nulli prorus remittit deus culpam, quin simul eum subiiciat humiliatum in omnibus sacerdoti suo vicario.

神様はその罪責を免除する時、同時にすべてのことで彼を謙遜にし、神の代理人である司祭に従っていない人には罪責を免除しません。

8. Canones poenitentiales solum viventibus sunt impositi: nihilque morituris, secundum eosdem debet imponi.

悔悛についての教会法は生きている者にのみ課せられており、それに従って死に臨んでいる人、死んでいる者には何も課せられてはなりません。

9. Inde bene nobis facit spiritus sanctus in Papa: excipiendo in suis decretis semper articulum mortis et necessitatis.

そのために聖霊は、法王をよって私たちに慈悲深いです。 なぜなら、法王は自分の教令で常に死と避けられない状況を例外にしているからです。

10. Indocte et male faciunt sacerdotes ii, qui morituris poenitentias canonicas in purgatorium reservant.

死に臨む人々に、教会法による悔悛を煉獄にまで留保する司祭たちの行為は、無知で悪いことです。


11. Zizania illa de mutanda poena Canonica in poenam purgatorii, videntur certe dormientibus Episcopis seminata.

教会法による罰を転じて煉獄による罰とまでしているのは、明らかに司教たちが眠っていた時に撒かれた毒麦の一つと思われます。

12. Olim poenae canonicae non post, sed ante absolutionem imponebantur, tanquam tentamenta verae contritionis.

かつては、教会法による罰は、赦罪(アプソルティオ)の後ではなく、真の悔悟を試すため赦罪の前に課せられました。

13. Morituri, per mortem omnia solvunt, et legibus canonum mortui iam sunt, habentes iure earum relaxationem.

死に臨む人々は、死によってすべてを支払うのであり、教会法から彼らはすでに解放される権利があります。

14. Imperfecta sanitas seu charitas morituri, necessario secum fert magnum timorem, tantoque maiorem, quanto minor fuerit ipsa.

死に臨んでいる人々の不完全な魂の状態、不完全な愛は必然的に大きな恐怖をもたらし、愛が少ないほど恐怖はさらに大きくなります。

15. Hic timor et horror, satis est, se solo (ut alia taceam) facere poenam purgatorii, cum sit proximus desperationis horrori.

この恐れとおののきは、それだけで(他のことは言及しなくても)煉獄の罰をなしているが、これは絶望の恐怖に非常に近い状態だからです。

16. Videntur infernus, purgaturium, caelum differre: sicut desperatio, prope desperatio, securitas differunt.

地獄、煉獄、天国の異なりは、絶望、ほとんど絶望状態、そして救いの確信が互いに違うように(救いのたしかさーセクリタス)区別されるようです。

17. Necessarium videtur animabus in purgatorio sicut minui horrorem, ita augeri charitatem.

煉獄にいる魂にとって、おののきが減じられるに応じて愛が増し加えられることが必然的に見えます。

18. Nec probatum videtur ullis, aut rationibus, aut scripturis, quod sint extra statum meriti seu augendae charitatis.

煉獄にある魂が、功労の状態、つまり愛が増加する状態の外にいることが、理性や聖書によって証明されていないように見えます。

19. Nec hoc probatum esse videtur, quod sint de sua beatitudine certae et securae, saltem omnes, licet nos certissimi simus.

また、煉獄にある魂が、少なくとも自分の救いについて確信し、安心していることは証明されていないようです。 私たちがそれを確信できるかもしれませんが。

20. Igitur Papa per remissionem plenariam omnium poenarum, non simpliciter omnium intelligit, sed a seipso tantummodo impositarum.

従って、法王が「全ての罪の完全な赦免」と言っても、それは実際に「すべて」のことではなく、法王によって直接課された罪とだけ解されます。



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